真珠色の革命時代 映画・本などの感想ブログ

ブログ名はTHE YELLOW MONKEYの名曲から拝借しております。

JOKER 感想

〈基本情報〉

2019年製作/122分/R15+/アメリ

原題:Joker

監督:トッド・フィリップス

 

〈あらすじ〉

本当の悪は、人間の笑顔の中にある。

「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。

都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに密かな好意を抱いている。

笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、狂気あふれる〈悪のカリスマ〉ジョーカーに変貌したのか?

切なくも衝撃の真実が明かされる!

(引用元:映画『ジョーカー』ブルーレイ&DVDリリース (warnerbros.co.jp)

 

〈感想〉

格差社会が生み出した悲しきピエロ、ジョーカー。
彼自身は人々に笑いを与えるコメディアンを目指しているのに、悲しみに満ち溢れた映画でした……。
 
★衝動による最初の殺人
社会から見放され、あらゆる人々から見下され、屈辱を何度も味わうアーサーの姿は見ているだけでつらかったです。
それでも日々ピエロという仕事に精を出し、体が弱い母を献身的に支え、夢のために研究や努力を続ける。
精神病院に閉じ込められていた過去や、トゥレット障害によりいきなり笑いだしてしまう病気を抱えてはいますが、逆境に負けず懸命に生きている様子が前半では描かれていました。
しかし、「人々を笑わせる」ことが夢のアーサーの現実は……。
とにかく、彼はやることなすことすべてうまくいかず、しまいには仕事をクビに。
そして、最後の仕事から帰る途中に酔っ払いのエリート3人組に絡まれ、また暴力を受けます。
このシーンの車内の照明が、一瞬消えて、すぐにまた点いて、を繰り返すのが印象的で、とても不穏でした。
アーサーの心の限界が近づいているのを示しているようでした。
そして、彼は衝動的に3人に銃弾を撃ち込み、殺してしまいます。
この殺人シーン、かなり好きでした!
まさに衝動といった感じで、逡巡がなく、無駄に煽ったり溜めたりしないメリハリが美しかったです。
 
★福祉の重要性
市の予算カットにより、毎週受けていた面談が中止になり、服用していた薬(これも市からの提供)がもうもらえなくなる、といったシーンがありました。
このあとからアーサーの暴走はよりひどくなっていくので、福祉の重要さを実感しました。
日本では、生活保護などの福祉に頼ることはなぜか白い目で見られるような風潮がありますが、頼れるものはどんどん頼っていいと思います。
そして、この映画のように、福祉がカットされ、貧困層への救いの手がひっこめられれば、アーサーだけでなく多くの人々が困窮し、自暴自棄になり、ラストシーンのような破滅へ向かっていくのです。
 
★殺人ピエロのムーブメント
彼が電車でエリート3人(富裕層)を撃ち殺した事件は、貧困にあえぐゴッサムシティにおいて、溜飲が下がるものでした。
町はピエロであふれ、デモも起こったりします。
不満が高まった社会において、なにかひとつの事件がきっかけで暴動や大規模な抗議活動につながること、現在でもよくありますよね。(今、フランスでまさにそのようなことが起きています)
映画ラストでは、ゴッサムシティは燃えさかり、地獄の様相を呈していました。
アーサーはその象徴として祭り上げられ、ある種のヒーローのように扱われます。
そして、トーマス・ウェインを殺した名もなきピエロはこう言います。「報いを受けろ、クソ野郎!」と。
これは「ジョーカー」がマレー・フランクリンを殺したときに吐いた言葉とまったく同じ。
第二のジョーカーが生まれた瞬間だと思いました。
つまり、「ジョーカー」は、アーサー個人が病気を抱えていたり、特殊な生い立ちだから発生した天災のようなものではないのです。
極端な格差社会の下側におかれ、貧困にあえぎ、憎しみをつのらせてゆく有象無象の市民たち。
彼ら一人ひとりがジョーカーになる因子を抱えていますし、それは現代の日本・わたしたちでも同じことです。
この燃えさかる街は、近い未来の日本ではないかと嫌な予感がしました。
 
★同じアパートの住人・ソフィー
わたしは最初から「いや~怪しいな~」と思っていたので、彼女との恋愛関係がすべてアーサーとの妄想であると判明したシーンでは「やっぱりな!」と悲しくなりました。
お母さんと一緒にテレビを見ているときにマレー・フランクリンに認められるという妄想をしていたので、彼の妄想癖は提示されていましたが……。
おそらくアーサーは恋愛の経験もないのかな、と思います。それはまったく悪いことではありませんが、妄想の内容から考えるに、彼にはパートナーが欲しいという願望はあったと思うので、「恋人がいない」「誰も自分を好きになってくれない」という状況は、彼の自己肯定感を削ぐ要因になったんじゃないかな……。
彼女の部屋から出ていったあと、窓の外には救急車、もしくはパトカーらしき赤と青のライトが映し出されていました。
アーサーは、彼女のことも手にかけてしまったのかな……と暗示する演出でした。
 
★「笑わせる」のではなく「笑われる」「笑える」人生
コメディアンを目指す彼でしたが、自分は人を「笑わせる」ことはできず、「笑われる」ばかりなのだと気づいてしまいます。
母に「ハッピー」という愛称で呼ばれていたけど、「幸せなことなんて一度もなかった……笑っちゃうよ」と目が覚めたように、自分の人生は悲劇ですらない、「笑える」くらいの喜劇なのだと。
「人を楽しませなさい」と言い聞かせてきた母はアーサーを虐待する彼氏を止めず、結果脳に障害を負わせることに。
仕事でも失敗続きで、クビになる。
尊敬するマレーのテレビ番組に呼ばれたのも、笑いものにするため。
すべての人々に踏みつけられ、あまりにもみじめな人生を滑稽なものとしてしまうまでにいたった心情を思うと、悲しくやりきれない気持ちになります。
階段でひとり踊るシーン、彼がアーサーから「ジョーカー」に完璧に変わった瞬間であると思いますし、自分の悲劇からある種解放され、喜劇を演じる決意をしたように見えました。
わたしは「解放」の物語やそういった場面が本当に大好きなので、やっぱりあのシーンはとても美しく感じました。
 
★どこからが妄想で、どこまでが真実なのか?
さて、ここまでいろいろと述べてきましたが、上記がすべてジョーカーの真実か? といわれるとそうではないようです。
ソフィーの件やマレーに認められる妄想から察するに、彼に妄想癖があることは明らかであり、この映画自体、先に述べた2つのシーン以外も、「今見せられているのは現実? いや、アーサーのつくりあげた妄想?」と、意図的に真実と妄想の境目があやふやになっています。
ライムスター・宇多丸さんがラジオで話されたことを下記に引用しますが、この構造から考えると、「JOKER」という映画がまるまる彼の妄想である可能性も拭いきれません。
 
ラストシーンですけど、冒頭と中盤にあるカウンセラーとの対話、これが最後に出てくるカウンセラーとの対話と、明らかに対になるように見せているわけですね。
「えっ? ということは……?」っていう読みもできるようになっているし。
 
また、ツイッターで面白い考察を見つけたので、こちらもご紹介しておきます。
 
ツイートが消去された場合何がなんだかわからなくなるので一応ツイートの内容を書いておきますが、「映画内に出てくる時計の針はどれも11時11分をさしている→この不自然さから、映画自体ジョーカーの妄想説が補強される」というもの。
時計の描写についてはまったく気づかなかったので、こちらのツイートを読んだときは「なるほど〜!」と膝を打つ思いでした!
 
また、こちらの方のツイートによると、11時11分という時間そのものにも意味があるみたいです。
海外では、11時11分に「Make a wish」と唱えれば願いが叶うというおまじないがあるそう。
このことと、映画の内容を照らし合わせると……。
ちょっとゾッとしますね(いい意味で)!
劇中のこんな細かな部分までひとつひとつ凝っているのがわかると、よりこの映画が好きになりますし、もう一度見たくなっちゃいます!
 
 
〈まとめ〉
この映画が製作されたのは2019年ですが、2023年現在、日本は確実にこのゴッサムシティに近づいています。
そういう意味では、今観ることができてよかったです。
もちろん、DCコミックスにおける「ジョーカー」というサイコパスキャラがいかにして生まれたか? という趣旨の映画なので、彼の悲しい生い立ちや「喜劇」的な人生が主題ではありますが、格差社会と貧困を見事に描き、それは「ジョーカー」のような存在を賛美し、追従者が出てくるような社会なのだ、というメッセージが強く込められているように感じました。
そのうえ、メッセージ性と社会を見つめる視線は十分にありつつも、「これはジョーカーが考え、つくりあげた世界と物語なのでは?」という可能性を匂わせることで、ひとつの映画作品としてのクオリティもしっかり保てており、まさに文句なしの名作です!
2024年にはアメリカで続編が公開予定とのことですので、楽しみに待ちたいと思います。
この映画のオマージュ元である「キング・オブ・コメディ」も見なきゃ!

ロブスター 感想

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〈基本情報〉
2015年製作/118分/R15+/アイルランド・イギリス・ギリシャ・フランス・オランダ・アメリカ合作
原題:The Lobster
監督:ヨルゴス・ランティモス


〈あらすじ〉
"あなたは何の動物になりますか?
“独身者”は、身柄を確保されホテルに送られる。 そこで45日以内にパートナーを見つけなければ、
自ら選んだ動物に変えられ、森に放たれる。 そんな時代、独り身になったデヴィッドもホテルに送られ、
パートナーを探すことになる。
しかしそこには近気の日常か潜んでいた。
しばらくするとデヴィッドは“独身者”が暮らす森へと逃け出す。
そこで彼は恋に落ちるが、
それは“独身者”たちのルールに反することだった。"
(引用元:https://www.finefilms.co.jp/lobster/


〈感想〉
なかなか難解な映画でした!(笑)
わたしのように映画リテラシーがそんなにない人間にとっては少し解釈に苦しむ映画だったのですが……。
これは恋愛映画であることは間違いないが、恋愛とは……?を追求する映画だったのではないかと思います。


パートナーがいなければ動物にされてしまう。
この世界は、あきらかにディストピアです。
理性や、感情や、さまざまな性的指向がある人間が、「パートナーがいない」だけで、繁殖こそが生きる意味である動物にされてしまう。
恋愛以外にも、人間にはもっとやるべきこともやりたいこともいっぱいあるよ!そういう人だっているんだよ!と、恋愛至上主義ともいえる世の中に物申したいのではないか?と思いました。


また、「パートナーを探さなければならない」という状況におかれるとなかなか乗り気になれないけど、「恋愛してはいけない」という環境だとなぜか人間は惹かれあってしまう……こういうの、あるあるだし、それこそ禁断の恋的に今までどんな媒体でも描かれ尽くしてきたストーリーラインですよね。
厳格なルールのもとで、破ればひどい目に遭うのはどちらも同じなのに、恋愛を強いられる環境下ではうまく恋愛ができず、逆に禁じられる環境下では愛を止められない。
そこにある種恋愛の滑稽さ、歪さのようなものが現れていたように思います。
つまり、ホテルの支配人が説明していたように、動物に変えられたとて、伴侶は探せるしセックスもできる。
でも森にいればパートナーはつくれないし、セックスもできない。
できないといわれるとやりたくなっちゃう、愚かさが見えた気がしました。


また、恋愛における嘘を描くシーンも多かったように思いました。
口では愛してると言うものの、命が危険となればすぐ妻を売り渡す支配人の夫。
自分との共通点が嘘であることを炙りだすために主人公の兄(犬)を殺し、まんまとそれを証明すると、「嘘の上に恋愛関係は成り立たない」となじるサイコパス女。
彼との共通点を失ったことが恐ろしく、失明を隠そうとするも「あなたに嘘をついてもいずれバレる」と自ら打ち明ける"近視の女"。
恋愛やその延長線上である夫婦関係とは、サイコパス女の言うこととは逆に、嘘の上に成り立つ関係であることの暗示でしょうか。
嘘をつきとおすことの難しさ、それでも何らかの嘘をお互い隠し通してこその関係である、恋愛の特殊さが見え隠れする場面たちでした。

 


そして、主人公がやたらと“近視”にこだわること。パートナーとの共通点探しのほかに、近くのものがよく見えない=恋愛の周囲がよく見えなくなるあの感じのメタファーなのかな、と思います。
しかし、パートナーが失明し、完全に盲目になってしまうと、少しずつ熱が冷めていく主人公。
一緒に森から逃げ出したラストシーンで、自分の目を潰し自ら彼女と同じ盲目になろうとするも、ためらってしまう……。
そして、彼を待つ“近視の女”のロングショットで唐突に映画は終わります。
盛り上がっている恋愛のさなかにいれば、ちょっとやそっとの障害もスパイスになるんでしょうが、いざ生活をともにする、ずっと一緒に生きていくとなるとそうもいかない……という現実的な目線だったのでは?
そういう意味では、罰として彼女の視力を奪った"リーダー"はこのことを知らしめたかったのかもしれません。あのあと彼が自ら盲目になったのかどうかは誰にもわかりませんが、わたしはきっとなっていないと思うなあ……。


〈まとめ〉
恋愛とは?について、深く考えさせられる映画でした。恋愛経験がないことや、パートナーがいないことを笑うような風潮もいまだありますが(これはとても良くないことだと思っています)、独り身でいる自由があってこそ、恋愛をする価値があると強く思いました。
何かに脅えて無理にパートナーを見つけようとしても、また、抑圧された環境下で場当たり的に愛し合っても、やっぱりうまくはいきません。
誰をいつ愛するか、もしくはずっと誰も(恋愛的に)愛さないか、その選択肢が個々人にあるからこそ、わたしたちは繁殖を第一目的にする動物ではなく、理性と感情と文化を持った人間でいられるのではないでしょうか。

ブラック・クランズマン 感想

 
〈基本情報〉
2018年製作/135分/G/アメリ
原題:BlacKkKlansman
 
〈あらすじ〉
黒人刑事が白人至上主義団体「KKKクー・クラックス・クラン)」潜入捜査した実話をつづったノンフィクション小説を、「マルコムX」のスパイク・リー監督が映画化。1979年、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で、初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワース。署内の白人刑事たちから冷遇されながらも捜査に燃えるロンは、新聞広告に掲載されていたKKKのメンバー募集に勢いで電話をかけ、黒人差別発言を繰り返して入団の面接にまで漕ぎ着けてしまう。しかし黒人であるロンはKKKと対面できないため、同僚の白人刑事フリップに協力してもらうことに。電話はロン、対面はフリップが担当して2人で1人の人物を演じながら、KKKの潜入捜査を進めていくが……。主人公ロンを名優デンゼル・ワシントンの実子ジョン・デビッド・ワシントン、相棒フリップを「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが演じる。第71回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。第91回アカデミー賞では作品、監督など6部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した。
 
〈感想〉
 まず、時代設定が1970年代なかばということで、たった50年ほど前。
つまり、私の母が生まれたくらいの時期で、そこまで大昔という感じがしないのに、「警察署」というオフィシャルな仕事の場でさえ繰り返される人種差別に驚きました。
もちろん現代にまで黒人差別が残っているのはわかっていますが、いまどき職場であんなふうにあからさまな差別をしたらさすがに罰されますよね。
それがたったの50年前まで、警察官に黒人がいないという状況が許されているばかりか、差別が横行していることにまず衝撃を受けました。
 
 聞くに堪えない発言を繰り返すKKKのメンバー内に実際に潜入するのは白人のユダヤ人刑事・フリップ・ジマーマン。
たびたび起きる危機を臨機応変に乗り越えるフリップ、歴戦の貫禄がありかっこよかったですね~!
途中でフリップは危ない目に遭い、「こんなことやってられるか!」「この捜査はおまえ(ロン)にとっては聖戦だが、おれにとってはただの仕事だ」と潜入捜査から降りそうになるんだけど、ロンは「おまえもユダヤ人なのに、自分をWASP白人のアメリカ人プロテスタント、かつイギリス系の上流階級)だと思ってる。色の薄い黒人だって自分を白人と思ってる。おまえは奴らの言うことに腹が立たなかったのか?」と反論。
その後、フリップは「特にユダヤ人として意識するように育てられてこなかったから、自分のことを白人だと思っていた。だが今は、そのことを全力で否定している。そして、ユダヤ人としての儀式や遺産のことを常に意識している」との考えを吐露します。
彼は民族としての自分のアイデンティティを意識せずに生きてきたにも拘わらず、KKKの中で強烈な差別意識と排除の意志にさらされたため、自分がユダヤ人であるということをある種の危機感をもって自覚したんだと思います。
自分すら意識していないただの出自や属性によってすら、偏見の目にさらされ、ときには命の危険にまで追い込まれる。
これが差別の怖いところであり、滑稽で、ばかげている部分だと感じました。
 
 また、KKKの射撃遊びで撃ち抜かれた的は、黒人を模した形の板で、ロンがその板をそっと撫でるシーン。
私はそれに何とも言えない怒りと悲しみを感じました。
これはただのお遊びではなく、実際にこうして「黒人だから」と軽々しく殺されてきた歴史があり、ジョージ・フロイド事件などが記憶に新しいように、彼らは今も偏見と差別によって殺され続けている。
そんな同胞を悼み、悲しみ、そして差別に抗ってみせるというロンの意志を感じる名場面でした。
 
 KKK支部でも過激派なフェリックスは最初からロン(という名で潜入しているフリップ)を疑い、ウソ発見器にまでかけて正体を暴こうとします。(あのシーン、ドキドキした~!)
そんなフェリックスは黒人集会が開かれるその日、集会場にプラスチック爆弾をしかける計画を立て、強行。
集会場にはロンの要請を受けた警察が大勢いたため、プランBとしてパトリス(黒人解放活動家の女性)の自宅に爆弾を設置することに。
 ここのシーンもいやだったな~。爆弾設置の実行犯はフェリックスの妻・コニー(もちろん白人女性)で、ロンはコニーを取り押さえることに成功するのですが、そこに駆け付けた警官は真っ先にロンを容疑者と決めつけて疑いません。
その場に黒人と白人がいれば、咄嗟に黒人が悪いと判断される。
これこそが偏見であり、黒人が戦ってきた、そして戦いつづけている理不尽な現実なのだと思いました。
 
 爆発自体は起こってしまうものの、パトリスやロンは巻き込まれずに無事。
フェリックスとその仲間は爆弾がしかけられた車のすぐ横にいたため、巻き込まれて爆死します。
潜入捜査を成功させたことで、ロンは一躍時の人に。
ついでに人種差別主義の同僚もクビに追い込むことができ、前途洋々ハッピーエンドかに見えましたが……
署長からは慰労とともに捜査の中止を命じられ、パトリスとも「刑事を続けるか、辞めるか」で不穏な空気になり、その話し合いのさなか、ロンの家のドアが乱暴にノックされ……。
窓から見えたのは、燃えさかる十字架と、それを取り囲むKKKの団員だち。
本当に不気味でした。
そしてそのまま、場面は2017年に開かれたヴァージニア州右翼団体の集会、そしてその白人至上主義者が反対デモの列に車で突っ込み、一人の女性が犠牲になるというドキュメンタリー映像が映し出され、この映画自体が実際にあった出来事をベースにしているように、ラストも実際にあったことを、実際の映像でそのまま我々に見せつけてきます。
しかも2017年、たったの6年前です。
「これはすでに終わったことではない、連綿と続いていることで、現代に生きる私たちの問題である」という主張がありありと伝わってくる、衝撃的な映像でした。
 
★感想をすべて書き終わった後、私の尊敬するシネマンドレイクさんの本作に関する記事を読み、「たしかにそれもあった!」と感じた部分を引用させていただきます
 
本作の意図的に演出された対比が最高潮に強烈に強調されるのは、黒人コミュニティと白人至上主義者コミュニティの会合の要素がカットバックで展開するパート。
黒人コミュニティは1916年に起きた「ジェシー・ワシントンリンチ事件」という凄惨な人種的暴力に関する生々しい証言をみんなで聞くことで“正しい知識”を“正しい情報源”で入手していますハリー・ベラフォンテという歴史の実際の証人が語っているのも重要)。一方の白人至上主義者コミュニティは洗礼の儀式で自分たちのキャリアを得た後は、『國民の創生』応援上映に興じてバカ騒ぎしているだけ。“正しい知識”も“正しい情報源”も何もない。「Black power!」「White power!」の合唱が平等にぶつかり合っているように見えますが、実際はあまりにレベルが違いすぎます。
 
「差別主義者は不勉強である」というのは、Twitterで起こる論争などを見ていて常々わたしも感じるところであります。
基本的な用語を知ろうともしなかったり、それは差別であると指摘された際、反射的に謎理論や使い古された詭弁で反論してきたり……。
「わたしは知識人であり、差別主義者は全員知能がない」と言うつもりは毛頭ありませんが、彼らは「学ぶ」という姿勢は相当欠けていると思います。
彼らの主張にはダブルスタンダードも多いですし、この映画で白人たちがただ『國民の創生』を見て熱狂しているように、何かに対する優位性で一体感を得て、自らが(相対的に)優れていると思いたいだけなんでしょう。
 
〈まとめ〉
 日本に生きる日本人として、わたしは人種的な差別を”受けた”ことはありません。
しかし、正直なところ、中学生くらいのときにはネトウヨにかぶれて、韓国人に差別意識を持っていたことがありました。
これは恥ずかしい過去で、当時のことを思い出すだけで顔から火が出そうになります。
それから十数年が経ち、世界にはびこる問題や差別について学んでいく中で、人種差別というのはあまりにもばかげた考えで、恥ずべき思想であると改心することができましたが、まだまだ不勉強ゆえ、自覚のない差別をしてしまうこともあるかもしれません。
しかし、大切なのは、差別問題や社会情勢について学び続け、自分の中の差別意識を見つめ、戦い、被差別者に寄り添って一人ひとりが声をあげることだと思っています。
この映画をみて、「(白人/黒人に限らずあらゆる)差別という問題は過去の悲しいことではなく、いまだ続いており、苦しんでいる人はすぐそばにいる」ということを改めて感じることができましたし、右傾化する日本に生きるひとりの日本人として、差別を絶対に許さないという姿勢だけは崩さないでいたいと思いました。
この冷笑的な世の中でも、せめてわたしは実直に、正しくありたいと切に願います。