真珠色の革命時代 映画・本などの感想ブログ

ブログ名はTHE YELLOW MONKEYの名曲から拝借しております。

ブラック・クランズマン 感想

 
〈基本情報〉
2018年製作/135分/G/アメリ
原題:BlacKkKlansman
 
〈あらすじ〉
黒人刑事が白人至上主義団体「KKKクー・クラックス・クラン)」潜入捜査した実話をつづったノンフィクション小説を、「マルコムX」のスパイク・リー監督が映画化。1979年、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で、初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワース。署内の白人刑事たちから冷遇されながらも捜査に燃えるロンは、新聞広告に掲載されていたKKKのメンバー募集に勢いで電話をかけ、黒人差別発言を繰り返して入団の面接にまで漕ぎ着けてしまう。しかし黒人であるロンはKKKと対面できないため、同僚の白人刑事フリップに協力してもらうことに。電話はロン、対面はフリップが担当して2人で1人の人物を演じながら、KKKの潜入捜査を進めていくが……。主人公ロンを名優デンゼル・ワシントンの実子ジョン・デビッド・ワシントン、相棒フリップを「スター・ウォーズ」シリーズのアダム・ドライバーが演じる。第71回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。第91回アカデミー賞では作品、監督など6部門にノミネートされ、脚色賞を受賞した。
 
〈感想〉
 まず、時代設定が1970年代なかばということで、たった50年ほど前。
つまり、私の母が生まれたくらいの時期で、そこまで大昔という感じがしないのに、「警察署」というオフィシャルな仕事の場でさえ繰り返される人種差別に驚きました。
もちろん現代にまで黒人差別が残っているのはわかっていますが、いまどき職場であんなふうにあからさまな差別をしたらさすがに罰されますよね。
それがたったの50年前まで、警察官に黒人がいないという状況が許されているばかりか、差別が横行していることにまず衝撃を受けました。
 
 聞くに堪えない発言を繰り返すKKKのメンバー内に実際に潜入するのは白人のユダヤ人刑事・フリップ・ジマーマン。
たびたび起きる危機を臨機応変に乗り越えるフリップ、歴戦の貫禄がありかっこよかったですね~!
途中でフリップは危ない目に遭い、「こんなことやってられるか!」「この捜査はおまえ(ロン)にとっては聖戦だが、おれにとってはただの仕事だ」と潜入捜査から降りそうになるんだけど、ロンは「おまえもユダヤ人なのに、自分をWASP白人のアメリカ人プロテスタント、かつイギリス系の上流階級)だと思ってる。色の薄い黒人だって自分を白人と思ってる。おまえは奴らの言うことに腹が立たなかったのか?」と反論。
その後、フリップは「特にユダヤ人として意識するように育てられてこなかったから、自分のことを白人だと思っていた。だが今は、そのことを全力で否定している。そして、ユダヤ人としての儀式や遺産のことを常に意識している」との考えを吐露します。
彼は民族としての自分のアイデンティティを意識せずに生きてきたにも拘わらず、KKKの中で強烈な差別意識と排除の意志にさらされたため、自分がユダヤ人であるということをある種の危機感をもって自覚したんだと思います。
自分すら意識していないただの出自や属性によってすら、偏見の目にさらされ、ときには命の危険にまで追い込まれる。
これが差別の怖いところであり、滑稽で、ばかげている部分だと感じました。
 
 また、KKKの射撃遊びで撃ち抜かれた的は、黒人を模した形の板で、ロンがその板をそっと撫でるシーン。
私はそれに何とも言えない怒りと悲しみを感じました。
これはただのお遊びではなく、実際にこうして「黒人だから」と軽々しく殺されてきた歴史があり、ジョージ・フロイド事件などが記憶に新しいように、彼らは今も偏見と差別によって殺され続けている。
そんな同胞を悼み、悲しみ、そして差別に抗ってみせるというロンの意志を感じる名場面でした。
 
 KKK支部でも過激派なフェリックスは最初からロン(という名で潜入しているフリップ)を疑い、ウソ発見器にまでかけて正体を暴こうとします。(あのシーン、ドキドキした~!)
そんなフェリックスは黒人集会が開かれるその日、集会場にプラスチック爆弾をしかける計画を立て、強行。
集会場にはロンの要請を受けた警察が大勢いたため、プランBとしてパトリス(黒人解放活動家の女性)の自宅に爆弾を設置することに。
 ここのシーンもいやだったな~。爆弾設置の実行犯はフェリックスの妻・コニー(もちろん白人女性)で、ロンはコニーを取り押さえることに成功するのですが、そこに駆け付けた警官は真っ先にロンを容疑者と決めつけて疑いません。
その場に黒人と白人がいれば、咄嗟に黒人が悪いと判断される。
これこそが偏見であり、黒人が戦ってきた、そして戦いつづけている理不尽な現実なのだと思いました。
 
 爆発自体は起こってしまうものの、パトリスやロンは巻き込まれずに無事。
フェリックスとその仲間は爆弾がしかけられた車のすぐ横にいたため、巻き込まれて爆死します。
潜入捜査を成功させたことで、ロンは一躍時の人に。
ついでに人種差別主義の同僚もクビに追い込むことができ、前途洋々ハッピーエンドかに見えましたが……
署長からは慰労とともに捜査の中止を命じられ、パトリスとも「刑事を続けるか、辞めるか」で不穏な空気になり、その話し合いのさなか、ロンの家のドアが乱暴にノックされ……。
窓から見えたのは、燃えさかる十字架と、それを取り囲むKKKの団員だち。
本当に不気味でした。
そしてそのまま、場面は2017年に開かれたヴァージニア州右翼団体の集会、そしてその白人至上主義者が反対デモの列に車で突っ込み、一人の女性が犠牲になるというドキュメンタリー映像が映し出され、この映画自体が実際にあった出来事をベースにしているように、ラストも実際にあったことを、実際の映像でそのまま我々に見せつけてきます。
しかも2017年、たったの6年前です。
「これはすでに終わったことではない、連綿と続いていることで、現代に生きる私たちの問題である」という主張がありありと伝わってくる、衝撃的な映像でした。
 
★感想をすべて書き終わった後、私の尊敬するシネマンドレイクさんの本作に関する記事を読み、「たしかにそれもあった!」と感じた部分を引用させていただきます
 
本作の意図的に演出された対比が最高潮に強烈に強調されるのは、黒人コミュニティと白人至上主義者コミュニティの会合の要素がカットバックで展開するパート。
黒人コミュニティは1916年に起きた「ジェシー・ワシントンリンチ事件」という凄惨な人種的暴力に関する生々しい証言をみんなで聞くことで“正しい知識”を“正しい情報源”で入手していますハリー・ベラフォンテという歴史の実際の証人が語っているのも重要)。一方の白人至上主義者コミュニティは洗礼の儀式で自分たちのキャリアを得た後は、『國民の創生』応援上映に興じてバカ騒ぎしているだけ。“正しい知識”も“正しい情報源”も何もない。「Black power!」「White power!」の合唱が平等にぶつかり合っているように見えますが、実際はあまりにレベルが違いすぎます。
 
「差別主義者は不勉強である」というのは、Twitterで起こる論争などを見ていて常々わたしも感じるところであります。
基本的な用語を知ろうともしなかったり、それは差別であると指摘された際、反射的に謎理論や使い古された詭弁で反論してきたり……。
「わたしは知識人であり、差別主義者は全員知能がない」と言うつもりは毛頭ありませんが、彼らは「学ぶ」という姿勢は相当欠けていると思います。
彼らの主張にはダブルスタンダードも多いですし、この映画で白人たちがただ『國民の創生』を見て熱狂しているように、何かに対する優位性で一体感を得て、自らが(相対的に)優れていると思いたいだけなんでしょう。
 
〈まとめ〉
 日本に生きる日本人として、わたしは人種的な差別を”受けた”ことはありません。
しかし、正直なところ、中学生くらいのときにはネトウヨにかぶれて、韓国人に差別意識を持っていたことがありました。
これは恥ずかしい過去で、当時のことを思い出すだけで顔から火が出そうになります。
それから十数年が経ち、世界にはびこる問題や差別について学んでいく中で、人種差別というのはあまりにもばかげた考えで、恥ずべき思想であると改心することができましたが、まだまだ不勉強ゆえ、自覚のない差別をしてしまうこともあるかもしれません。
しかし、大切なのは、差別問題や社会情勢について学び続け、自分の中の差別意識を見つめ、戦い、被差別者に寄り添って一人ひとりが声をあげることだと思っています。
この映画をみて、「(白人/黒人に限らずあらゆる)差別という問題は過去の悲しいことではなく、いまだ続いており、苦しんでいる人はすぐそばにいる」ということを改めて感じることができましたし、右傾化する日本に生きるひとりの日本人として、差別を絶対に許さないという姿勢だけは崩さないでいたいと思いました。
この冷笑的な世の中でも、せめてわたしは実直に、正しくありたいと切に願います。